Joi の Twitter の投稿で気付かされた。当時自由が丘にあった Joi Ito Lab に、DG 同僚の枝さんとバイクで通った写真も、Joi (現在 MIT Media Lab Director) の7年前の2008年4月23日のブログ(英語版。日本語版はこちらからどうぞ。)にはリンクされていた。
Joi の写真には写っていないが、当時の Twitter 日本語サービス初期版開発チームに参加していたサトウ君や高木さんについても、Joi は写真ページのコメントで丁寧に言及してくれている。
7年前の4月23日。僕ら、少数精鋭(!?)の DG Incubation 社チームは、今は懐かしい Digital Garage 富ヶ谷オフィスの一室で、Twitter 日本語サイトの正式ローンチ・イベントを行っていた。イベントの MC は、枝さんと高木さん。時には全身タイツ姿で Twitter ユーザー会に出かけ、初期の Twitter コミュニティの皆さんに可愛がって(?)頂いていた二人は当時、通称 TWJ 1号、2号、と呼ばれていた。
Tweet と Streaming をしながら、TWJ 1号・2号の二人は新幹線こだま号に乗って全駅下車、東京から大阪迄、Twitter ユーザーの皆さんに駅でお会いする「つ、の旅」も企画、実行していた。この旅で出会った一人のユーザーさんに、世界で初めて(!)のツイッターステッカーを作成頂いたり。ちなみに旅の終着点は、なぜか「津」駅だった(笑)。
その二人にエンジニアのサトウマサヒコ君が加わり、 当時まだ20数名規模だった Twitter US 本社に高木さんを派遣、2008年1月の DG Incubation 社による Twitter Series B 投資発表からわずか3ヶ月余りで、Twitter 日本語版の正式立ち上げを実現したのだった。
英語は得意で無いのに、サンフランシスコ市内、サウスパークにあった初期の US Twitter 本社チームの技術者と仲良くなって、東京側のサトウ君、枝さんとのコラボで日本語化を見事3ヶ月で成し遂げた、Panasonic 出身の営業もできる技術者、高木さん。
日経 BP、日経エレクトロニクス副編集長を務め、「Tweet」を英語的な「さえずる」ではなく、日本市場に即した「つぶやく」という言葉で見事に翻訳した枝さん。その後「つぶやく」、という動詞は、日本のソーシャル・メディア業界で一般的に使われる言葉になっているのは、わずか7年という短い歴史の中で大変なブランディングの実績であろう。
Joi が、Neoteny 社長だった 2002年に、当時 Pyla Labs というブログ・サービス「Blogger」開発・運営社の CEO だった Evan Williams 氏との関係を築き、それから6年を経て、DG Incubation からTwitter 米国本社への投資実行、Twitter 日本語サービスの開始にこぎ着けた。色々な点と線が結び合わさって、7年前の4月23日にたどり着いたのだった。
当方は当時、投資と日本語サービス立ち上げの責任者として、初期の Twitter 日本語版立ち上げチームに参加していた。Series A クロージング直後に実行された Series B 投資時点では、DG Incubation は、全株式の実に 1% 近い投資シェアを獲得していた。その後投資家が増えて希釈化してしまったが。投資初期は、「ミニ・ブログなんて、本当にビジネスになるの?」と聞かれる事も多々あったのだが、当時の我々チームは Joi のアドバイスで Twitter をユーザーとしてもかなり使い込み、"addicted" になっている自分たちを発見していた。このサービスは、リアルタイム・ニュース・サービスとしてきっと成功する、という自信を、当時のチームは心のどこかで共有していた。Series B と早いステージでの Twitter 海外展開支援にも、不思議と不安は無かったのだ。
自信を得た最初のきっかけは、日本語サービス開始前年の2007年の初夏、渋谷の温泉施設で突然起こったガス爆発事故だった。昼間に会議をしていると突然、当時富ヶ谷にあった DG 本社会議室まで轟音が響き、やがて取材のヘリコプターも飛び交い始めた。しかし、テレビでもラジオでも Web ポータルでも、その音の理由が一切伝えられない。一番最初にそれを伝えたのは、まだ正式日本語化が進む前から Twitter を利用していた、渋谷地区 IT 企業の、早耳の Twitter ユーザー達だった。「松濤の温泉施設で、どうやら大きな爆発があった」その書き込みに、我々は騒然となるとともに、Twitter のパワフルでスピーディなニュース拡散力を目の当たりにしたのだった。「これは必ず、新しい C2C リアルタイム・ニュース・メディアに成長するに違い無い」、と皆確信した。スマホすら無かった時代にもかかわらず。
Joi から「Twitter を皆で使ってみようよ」という話があったのは、その少し前からだった。そういえば、MovableType で最初にブログ・サービスを使い始めた2002年も Joi からアドバイスを受けて、まず当時の Neoteny 社員皆で使い始めたのだった。"Learn by doing." Joi はいつも新しい技術・サービスが勃興する、相当前にそれに気づき、我々はそれをユーザーとして実際に試した上で、着実にビジネス・アクションに繋げていた。いつも Joi が光速で駆け抜ける半歩後を、全力で追いかけていたのだ。
2015年、7年後の Joi は MIT Media Lab の Director として、ボストンで世界一の頭脳集団を率いて活躍している。日本の皆さんにとっても、NHK Eテレの「スーパープレゼンテーション」の MC として、お馴染みの顔になっているはず。当時の Twitter 日本語立ち上げチーム員も、今はそれぞれの道を歩んでいる。しかし、当時の DG Incubation チームに所属していた全員にとって、Twitter 日本語版の投資から初期立ち上げ迄を少人数で実現した事は、大きな自信となり、現在の活動の基盤になっているはずだ。
立ち上げから程なくして、 DG と CGM Marketing 社でより多くのチーム・メンバーが Twitter 日本語版の初期 Marketing / Branding に参加、大変手がかかった24時間の日本語版 Twitter ユーザーサポートを代行し、世界で唯一かつ最初の Twitter オフィシャル・サイト広告サービスを開始し(今は WiL で活躍している琴君が、当時は米国側 Twitter 本社に張り付いてこの DG による広告サービスを支えていた)、複数回の User Meetup も開催(今は Evernote Japan の上野さん、ご苦労様)し、やがて Twitter Japan が設立されて運営を DG から移管し、2013年9月の Twitter 本社米国 IPO も成功して、現在に至っている。多くの献身的な DG グループ・チームメンバーによって、Twitter 日本語版サービスは急成長を遂げた。(その頃の写真は、こちらの flickr アルバムをご参照頂き度い。)
Joi の Twitter エントリーで、そんな事をふと思い出した。あれから7年「も」経ったのであり、7年「しか」過ぎて居ない様でもある。当方はその後、2013年に、7年間在籍した Digital Garage グループを離れ、ボストンに Joi が引っ越してからは、実際に顔を合わせる時間もあまり無くなってしまったが、ネット上でいつも彼の活躍は東海岸からリアルタイムで伝わって来る。これも Twitter のおかげ、である。
2015年の今、Twitter のサービスは世界で約3億人弱に活用され、日本でも約2千万人がユーザーとなっている。(詳細な統計データはこちらをご参照。)米国本社の時価総額は約 330億ドル(日本円換算約4兆円)に達し、世界で働く従業員総数3600名、一週間で消費するゆで卵は1440個、同コーヒー消費量は585ガロン(笑)と巨大なソーシャルサービス提供企業に成長した。7年前の僕らには、勿論ここまでの急成長は見通せてはいない。
しかし前述の通り、無意識の下に何か、僕らチームには強い確信があった。そう、Joi はいつも、未来を見せてくれていたのだ。
7年前も、そして今も、Joi は Net Community に先進的なビジョンを与え続けてくれている。さあ次は、新しいボーダーレス決済の、グローバルな仕組み作りへ!。
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